今だから笑って話せるが、小学生のころ、私の机は教壇の横にあった。担任とともにクラスメイトに向き合うかたちで授業を受けていたのである。瀬戸内の神童と呼ばれていた私は迷える子羊であるクラスメイトたちを救い主のように教え導き、勝利へ向かって旗を振る日々であった、わけではもちろんない。
手の施しようがない子だったので、担任がいつでも首根っこを押さえられるように隣に座らせていたのである。そのような特等席に座っていながら、宿題は毎日のように忘れた。私は忙しかったし(遊ぶのに)、向学心などかけらもなかったのでやらずに済むものはすべてやらなかった。やらなければならないこともおおむねやらなかった。
三つ子の魂百までと言うが、ナイスミドルとなった今も人間としての中身はそれほど変わらないもので、勉強などは必要に迫られないと初めの一歩が踏み出せない。翻訳という仕事をしているとこれまで知らなかった事物に遭遇することが多いので、翻訳対象を読解する上で必要な知識を得るため勉強せざるを得ない。これがなければどうなっていたことか。私は空っぽのまま馬齢を重ねていたことだろう。このあたりは自分の仕事に感謝している。
ただ、このままではいけないとは思っている。仕事をこなすために勉強するという受け身の姿勢がよろしくない。だから、今年は正月から勉強法についての本や速読の本などを何冊か読んだ。まずは人様がどういう風に勉強しているか知ることから始めたのだ。印象に残っているのは超高速勉強法―「速さ」は「努力」にまさる!、齋藤孝の速読塾、そして読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門の3冊である。
中でも佐藤優氏の「読書の技法」は非常に面白かった。本をどう読めばいいか、筆者はどういう風に読んでいるか、が懇切丁寧に解説されていて、どれも説得力があるので読んだだけで自分も読書家になった気分になれる。そして何より素晴らしかったのが、社会人が勉強をやり直す際の具体的な取り組み方の提案である。いくつかの教科が取り上げてあり、私は数学の章に吸い寄せられた。こういう下りがある。
数学や外国語(あるいは古文や漢文)を、教科書や参考書だけで理解することは不可能だ。これらの勉強は、体で覚える技術(ギリシア語でいうテクネー)の要素があるからだ。(中略)数学も外国語も知識の要素がもちろん大きいが、そこに至る段階でテクネーとしてある程度のことを体に覚え込ませなくてはならない。
外国語は体で覚える、ということは職業柄よく分かっているつもりだが、数学も体で覚えなければならない、というのは新鮮だった。そうかそうかそうだったのかと大いに納得し、早速推薦されていたもう一度 高校数学(高橋 一雄)を入手した。シャーペンとノートを横に置いて、手を動かしながら勉強するといいらしい。よし、準備は万端だ。
なぜ数学に反応したのか。それはたぶん「数学をやると人生の幅が広がりそうな気がする」と私が考えているからだろう。私はプログラムをやるが、これまでは必要に迫られて、あるいは作りたいものがあってそれを実現するために見よう見まねでやってきた。難解なアルゴリズムなどはサンプルのソースコードをにらみつけてどういう風に動作するのかを検証しながら亀のようなスピードで理解してきた。これはこれで勉強になるのだが、そういうときに数式がさらっと読めれば要する時間はぐっと短くなる。同じ機能を実現するにしても、よりスマートで効率的な手法にたどり着けるかもしれない。佐藤氏は「もう一度 高校数学」について「標準的なビジネスパーソンなら3~6か月かかる」と述べている。ということは、私の脳みそは半年ほどで輝きを増し、下半期に次々と優れたプログラムを書き上げるという予測が成り立つ。素晴らしい。捕らぬ狸の皮算用とはこのことか。