漢詩の勉強をはじめました。きっかけは小津夜景さんの『いつかたこぶねになる日』というエッセイ集です。古くて遠いと思っていた漢詩が日常にスルッと溶け込んでくるような錯覚を抱かせてくれる素敵な本です。漢詩をこんな風に身近なものとして感じられたら、視界が広がって物の見方もきっと変わるだろうな。そんなふうに思いました。
それからしばらくして『漢詩のレッスン』を図書館で借りました。岩波ジュニア文庫の本ですが、私には十分すぎるほどの読み応えがありました。一句ごとの詳しい解説、作者の紹介、時代背景、文化風俗にいたるまで記してあり、漢詩の鑑賞方法のいろはを学ぶことができます。わずか20文字の五言絶句をひと文字ひと文字かみしめると、ここまで深く味わえるという漢詩沼の深さにめまいがします。
著者の川合康三さんが「あとがき」で次のように記していたのが印象的でした。
黙読しながら一篇の詩からたくさんのことを導き出す。一つの繭から際限なく糸が繰り出されるように、自分の感覚や思考や知識を総動員して、できるかぎり豊かに意味を引き出す。
知識がなければ漢字の羅列にしか見えない漢詩。知識があってもそこに書いてあることを読み取る感性がなければ「読みました」で終わってしまう。なんだか自分がすごく試されている気がしてきました。
こうして右も左もわからないことを確認した私は、中国の小学生向けの漢詩の教科書『小学生必背古詩詞75+80首』を購入しました。小朋友たちと机と並べ、基本のキから始める必要があると思ったのです。この教科書が実によくできていて、漢詩の解説、現代語訳、作者紹介が読めるのはもちろん、スマホで二次元コードをスキャンして朗読の音声を聞くこともできるのです。
リンク:小学生必背古詩詞75+80首(亜東書店) (東方書店)
まず漢詩を簡体字で書き写し、次に音読を聞き、さらにシャドーイングします。何度か声に出して読んでみたら、次はネット検索して読み下し文を探し、それも書き写します。
使う道具は100円ショップで購入したわら半紙の無地の雑記帳、鉛筆、スマホだけです。一日一首。所要時間10分弱。その程度ですが、疲れている日はやりません。別に期限があるわけでもないですし、負担に感じて教科書を放り出さないことが最優先です。
でも、やってみるとこれが楽しい。音読で口を動かす、書き写しで手を動かす。これがすごく新鮮です。ふだんパソコンのディスプレイをにらみつけ、キーボードを叩いて眉間にしわを寄せている人間です。声に出して朗読なんて何年振りでしょう。落書き帳に鉛筆で書く字の汚いこと。字を書くという行為から遠ざかりすぎている自分を嫌でも認識させられます。もともと重度の悪筆でしたが、それがさらに進み、紙の上を字が踊り狂います。
動かない舌、力みすぎの手をなだめながら、唐や宋の時代の詩と向き合って、少しでも何か汲み取れるように、そこに並ぶ漢字を眺める。日本と中国で形が異なっている詩があり、その原因を調べていると、思いのほか深い森の中に迷い込むこともあり、それもまた楽しい。
李白に「望天門山」という五言絶句があります。
天门中断楚江开,碧水东流至此回。
两岸青山相对出,孤帆一片日边来。
これが日本では次のように伝わっています。
天門中斷楚江開,碧水東流至北回。
兩岸青山相對出,孤帆一片日邊來。読み下し
天門中断して楚江開け
碧水東に流れて北に至りて廻る
両岸の青山相対して出で
孤帆一片日辺より来る
第2句の「碧水東に流れてここに至りて廻る」が「碧水東に流れて北に至りて廻る」となっていて、なんで違うんだろう、と気になるわけです。それで少し調べると国学網の《望天门山》故址、诗意散考に詳しい説明があり、清代の学者・毛奇齢の説が紹介されています。なるほどなあ、と感心してWikipediaで毛奇齢のことを調べると、その人物評がケチョンケチョン(笑)で信用していいのか不安になったりもしますが、こうやっていろんな人の手を経て漢詩は今日まで伝わってきたということなのでしょう。
漢詩をしっかりかみしめ、味わえるようになるまで、道のりは遠そうですが、とりあえず歩き始めることにします。