直訳や意訳という言葉があるが、原文に書いてある情報を過不足なく訳文に盛り込めばいいかというとそれだけでは不十分で、文書に応じた文体を選択する必要がある。契約書、特許、マニュアル、新聞雑誌の記事、広告など求められる文体はそれぞれ異なる。
はじめからあらゆる文体を網羅しているわけではないので、駆け出しのころは見よう見まねで試行錯誤を繰り返し、それっぽい文体をなんとかひねり出そうと悪戦苦闘する。
そういうときに気をつけないといけないのが、それっぽくするために原文に書いてあることを削ったり、原文に書いてないことを加えたりする、という落とし穴である。これが実にはまりやすい。文体が自分のものになっていないので、前後の文章をつなげようとしてつながらず、あがきにあがいたあげく、そういうずるをしてしまうのである。
そういう訳文は、チェックしているとすぐに分かる。わたしもいつも同じようなことで悩んでいる。どこで苦しみ、どこであきらめたかも何となく分かる。もう少しがんばって頭の中でああでもないこうでもないとやればいいのに。そんな風に思う。いったん訳出してしまうとそこで思考が止まってしまい、以後はその訳文をベースに考えるようになっていまうので、本当に自分が訳出したかったものから遠ざかってしまうのである。だから、難しい原文にあたって訳文がなかなか浮かんでこないときは、できるだけ我慢する。キーボードを押したくなるけれど、我慢して頭の中にある正解にたどり着けるように原文をにらみつける。
疲れ果てたらいったん放置するのも手だ。何かで読んだが、人間の脳は寝ている間に情報を整理するらしい。時間が許せば一晩寝かせて次の日に再度挑戦するのがいい。昨日とは違った角度から訳文の構築に取り組めるだろう。それで「それらしい」訳文にならなかったら、それらしくはなくても原文に忠実な訳出をするしかない。それらしくウソを書くのはやめて欲しい。チェックをする側からすると、それっぽいけど間違っている訳文というのはとても面倒なのである。その文だけでなく前後の文、場合によって一段落まるまる訳し直すことになる。チェックの仕事は要した時間に応じて料金を請求することになる。当然、エージェントにしてみれば時間がかからない方が好ましい。チェッカーから「いやあ、直しの必要なんてまったくありませんでしたよ」とコメントされる翻訳者のところには仕事が押し寄せるはずである。お互いがんばろう。
胸にグサッと来るけど、非常にハッとさせられる話です。精進せねば。
こんなことを書いておいてなんですが、私の訳文もどこかで誰かの手を煩わせているかもしれません。訳文を受け取る人の負担にならないよう精進を重ねて参りたいと思います。